本文へスキップ

視覚障害のあるなしに関わらず友に山の仲間として野遊びを楽しむ

四国ポレポレ山楽会

Facebookでシェア
X(旧Twitter)でシェア
LINEでシェア

ポレポレ山楽会のあゆみcircle history

《 もくじ 》


The history of ポレポ~レ ~ さまよい編 ~

 僕の最古の登山の記憶といえば、学校の長い休みの度に親父に連れて行かれていたファミリー登山である。
 小学校の頃までは視力も0.1ほどあり、親父や兄貴の背中を追いかけての山歩きも、足場確認もどうにかできていた。しかしながら、まさに”連れて行かれていた”という表現がぴったりくるほど、急登、置いてきぼり、耐寒と苦痛に満ちあふれたものであり、昔のアルバムによれば、日本アルプスや尾瀬、奥多摩の名峰なども踏破しているようだが、一つとして記憶と山名が結びついていないというのが正直なところである。
 とはいえ、その経験がどこかで自信を与えてくれているようでもあり、今となれば、あのファミリー登山の経験がなければ、視力を失ってからも、再び山に登り始めるようなことはなかったのではないだろうか。そして、未だにサポートの人たちが景色に感嘆の声をあげるときは、一人勝手に子どもの頃に見た、どこかわからぬアルプスからの3000m級の山々が連なる景色を思い浮かべていたりすることもあるのである。
 そんな苦痛に満ちあふれたファミリー登山も兄貴の中学入学の頃より休止符が打たれている。僕自身の視力がdecrescendo していったことも原因の一つだったのかもしれないが、今となれば、このまま休止符が続き終止符とならぬよう、いつかは親父や兄貴との登山を一度は再開してみたいという気さえどこかにある。
 登山から解放された思春期からの僕は、夢見るギター少年となり、決して自ら山に向かうことはなかった。それでも学校行事での登山やキャンプなどのときは、心の奥の方で、かつてのファミリー登山の思い出がわずかな自信を漂わせてくれていたような気がする。
 そんな僕が再び山に足を向けたのは、20代半ばのことであった。しかしその目的は登山ではなく、その頃流行った「私をスキーに連れて行って」という映画に影響された、”スキー! → すてきな出会い! → そして・・・”という純粋なまでに不純な動機であった。
 だが、ブラインドスキーも登山同様、前後のサポートに挟まれ滑るわけであり、男たちに守られて滑る僕は、けっして映画のように女の子との愛が芽生えるようなことはないのである。 (ぐしゅん)
 それでもリフトでピーク近くに運ばれて、うすぼんやりとした目に周囲の山々のシルエットや山の空気を感じたときには、かつてのファミリー登山の記憶がCross Overし、どこかノスタルジーを覚えていた。
 この男たちだけの硬派な(?)スキーも3年目に、サポートが転倒している隙に視障者が他のスキーヤーに突っ込みケガをさせてしまうという事故を起こしてしまった。
 事故の対応も一段落した頃に、やはり、友達同士でわいわい楽しくということばかりではいけないだろうということで、視覚障害者のスキーをやっている団体を探すことにした。そして出会ったのが、関東を中心に活動している「六つ星山の会」であった。
 要するに、登山を活動の中心としている六つ星山の会が、1月に計画していたスキーに参加するためだけに、あわてて12月の忘年山行&忘年会から入会したという、これまた僕らを突き動かしたものは、再び純粋なまでに不純な動機のみだったのである。
 はてさて理由はどうあれ六つ星山の会と出会い、かくして僕も再び山に登ることになってしまったわけだ。とはいえ、自分の足下が見えなくなってからの初めての登山となるわけでもあり、いくらスキーに連れて行ってもらうための一つのプロセスと割り切ってみても、けっして不安がなかったわけではない。
 六つ星山の会は、会員数300人以上、うち視障者100人程度。毎月の山行出席者数は60~70人ほどで、毎回ハード、ソフトの二つのコースに別れて山行を実施するという、今年で結成20周年を迎える、おそらく日本で最大の視障者登山の会である。
 そしていよいよ忘年山行の日となり、久しぶりの山装束に身を包み、ザックを担いで、目的の山がある奥秩父の小さな駅に下り立った。
 そこで班のリーダに、サポートの受け方を教わるのだが、「片手で前の人のザックのロープにつかまり、あとはストックで適当に足場を探ったり、バランスをとりながら歩いてください。」という簡単なものであった。
 simple is best! とは言うものの、さすがにculture shock であった。
 そんなことでちゃんと自分が山を歩けるのだろうかという不安もあったが、かつてのファミリー登山で、”登山 = 重いザック = 地獄の苦しみ”という方程式をすでに僕は導き出していたので、自分の荷物を担いで山に登るだけでも辛いのに、おまけにそれに僕がつかまったりしたら、さぞかし前のサポートの人は苦しいだろうに・・・、 っという心配もあった。しかも僕のその日のサポートは、頑強な山男というわけでもなく、40代半ばの普通の女性のような雰囲気の人だったのだ。
 とにかく僕の不安の解消を待つ間もなく、前のザックは動き出した。そして僕も、できるだけ前のサポートに負担をかけないように、つかまっているザックを軽く押すような気持ちで必至に前に進んだ。それが幸いしたのか、あらあら不思議、あぁ~ら不思議!前の人のザックにおいている手を伝わってくる情報で、段差や路面の状況、前の人がどこに足を置いたかなどがけっこう想像できるのである。
 その日の登山は、忘年会前の軽い腹ごなし山行というせいもあったのかもしれないが、さほどの苦しさや恐怖を感じることもなく、無事下山することができた。
 その後の忘年会でのビールの魔力もあったのかもしれないが、視力が落ちてから、ギターと飲み会くらいしか遊びのネタがなく、けっこう出不精になっていた僕にとって、この日の山行は、苦痛に満ちあふれたファミリー登山からの呪縛からも一歩踏み出すきっかけを与えてくれたような気もする。そして、当初の目的であった下心スキーツアーが終わっても、毎月の山行を楽しみにするようになっていた僕がそこにできあがっていたのである。
 ところがである、高知出身のある先輩女性に、純真無垢な僕はだまされて・・・ (まあこの件については、お互い見解の相違があり、学者の間でも意見が分かれるところなので、この場では言明は避けることとしよう。 (冷汗)) とにかく、六つ星入会から2年ほどで、結婚を機(平成6年)に脱会し、高知に移り住むこととなったのであった・・・