The history of ポレポぉ~レ~ ~ 誕生編 ~
高知に来た直後は、”仕事こそ我が命!”と昼夜を分たず、休みも惜しんで仕事に明け暮れていたが、人間そんな性に合わないことを長く続けられるわけもなく、2ヶ月も後には、週末になるとザックにお弁当とビールを当然のように詰め込んでいる僕がいるのであった。
最初は視覚障害者の山の会を探すというわけでもなく、妻のサポートで、妻の友達や地元夜須の山の会の人たちと、四国内の山を楽しんでいたが、サポート要員が妻だけだったということもあり、夫婦喧嘩の後や生命保険料の納付期限が近づくと、身の危険が頭の中をよぎることもあり、妻以外のサポートや山の仲間の必要性を感じるようになってきた。 (冷汗たらぁ~ (^^;)
・・・っというのは冗談だが(いやっ、まんざら冗談ばかりでもないか? ^^;)、1年後の妻の妊娠により、”しばらく山に行けなくなってしまうのか。”という思いが、”山に行きたい!”という気持ちを揺さぶり、よけいに大きくしてしまったようである。これは、盛り場に行くなと言われれば行きたくなる、見るなと言われれば覗いてみたくなるという、鶴の恩返しの時代からの人の性であろう。
とは言え、全く以て男のエゴ以外の何者でもない。妻が山に行けなくなったのは妻だけの責任ではなく、男の方にも少なくとも半分は責任があるはずだが、妻と一緒に山を我慢しようという感情は、ついに男の(・・・っと言うよりは僕の?)行動の主導権を握るまでには至らなかったのであった・・・ 「欲は人の常なり。恋は人の他なり。(井原西鶴)」
さて、夢の実現の第一歩は、情報収集である。高知に来て1年あまりでは、同じ視覚障害の知人もほとんどおらず、県内にすでに六星山の会のような会があるのかすらわからなかった。
そこでとりあえず点字図書館と盲学校などに問い合わせてみたところ、視覚障害者の組織で行事の一つとして単発的にハイキングを実施した会はあるが、視覚障害者の登山を目的とした会は、まだ高知にはないようだということがわかった。
だからといって一般の山の会に一人で入り、「一緒に山に連れて行って!」という程の勇気も持てず、また、すでにいろんな山の楽しみ方をしている人が集まっている訳であり、こちらからのアピールの仕方にも難しさがある。
そこで、
- 自分は目が悪いのだが山に登りたいのであるということ
- 視覚障害者の登山のサポートというものにはそれほど技術はいらないということ
- 全国的には視覚障害者の山の会はすでにいくつもあるということ
- あまり障害者問題がどうのこうのという難しいことは考えないでいいということ
- 四国のすばらしい自然はきっと視覚障害者にも楽しめるということ
などなど、思いの丈を手紙に託し、点字図書館や盲学校、大学の山岳部、一般の山岳会等に送ってみた。
そのほとんどが空振りであったが、点字図書館からは、「そういう希望の視障者は今までいなかったが、ボランティアの中で登山の好きな方に声をかけてみよう。」という返答がもらえた。
その数日後に、図書館から紹介されたという、点訳ボランティアの山好きな女性から電話があり、とりあえず山に行きたがっている視障者がいるということは分かってもらえたようだが、やはりサポートの仕方に関し、かなりの不安があるらしく、電話でいろいろと説明したものの彼女の不安を全て取り除くことはできなかった。
”山”と”視力障害”というものがなかなか結びつかないようであったが、最後に、「これから少しずつ周りの人たちに声かけをしてみる。」と言ってもらえたときには、一歩だけ山に近づけたような気がして、実に嬉しかった。そして、ただ受話器に向かって、ありがとうとお願いしますを何度も繰り返していた。
その後は、再びすぐになんの変化もないぼんやりとした日々にもどってしまった。
そして数日が経過すると、心の中では、「まあ、まだまだ視障者の登山というものは一般的じゃないしな・・・」とか、「施設宛に出しても誰が読んでくれるのかわからないし・・・」、「今年は女の厄年だしな・・・ って、僕は男だったか!?」などなど、自分の思いと現実とのギャップを埋めるための、屁理屈という理論を、少しずつ積み重ねはじめていた。 (これを心理学の世界では「合理化」というらしい。)
そして次のアクションを考えはじめようかとしていたある12月初旬の朝・・・? いやっ、やっぱ昼だったかな?? ううむ、夜だったような気もしてきたぞ??? まあそんなことはどうでもいいんだ!
とにかく12月初旬のある日のことなのである! 高知新聞の橘さんという記者から、取材依頼の電話が突然飛び込んできた! どうやら、点字図書館の方が、前述の手紙を紹介してくれたらしい。
僕にとって初めての取材だったということもあり、血圧を30mmHgほどアップさせて臨み、緊張の中で訳のわからないことをしゃべりまくってしまったわりには、さすがに向こうはプロである。
平成7年12月14日の高知新聞朝刊”八色鳥”の欄に、『ともに山の空気を!!』という見出しで、Tさんと東赤石山頂でへろへろになっている写真とともに、僕の思いを伝えてくれる記事が、紙面を構成していたのであった。
そして、さすがに新聞の力は偉大である!
その昼には、「目が悪いことをかくし他の会の登山に参加し、迷惑をかけてしまったことがあるが、また山に行きたい!」というFさんから、そして夕方には、「パソコン通信の野鳥のフォーラムの集まりで、六つ星の会員の人と会って話を聞いたことがある!」というとうくろうさん、夜には、「まだ山を初めて間もないが、2年間で四国百山を踏破した!」というOさんが連絡をしてきてくれたのである。
かくして、一緒に山に登ってくれる人を捜しはじめて一ヶ月あまりで、気持ちを受け止めてくれる仲間たちに出会うことができたわけだ。これは Lucky という以外のなにものでもないが、やはりそれとともに、「宝くじは買わなきゃ当たらない!」、「犬も歩かなきゃ棒にも当たらない!」、「何かやりたいことがあっても、言葉にしたりアクションを起こさなければ何も始まらない!」ということの証明なのであろう。
そしてその日曜には、早速Oさんが我が家を訪ねてきてくれることとなったのだが、僕の鋭い眼力は、すぐに彼がいい人だということを見抜いてしまった!
玄関に迎え入れたとたんに、大きな手でしっかりと握手してくれたということもあるが、だってその左手にはお饅頭とビールを持ってきてくれていたんだもん!!! ( ^_^)/□☆□\(^_^ )カンパ-イ!
ところで、記事が掲載され、Fさん・とうくろうさん・Oさんの3人が連絡をくれたのが、12月中旬のことである。いくら”南国土佐”とは言え、これからは冬山の季節であった。
僕の心の中では、「まあ春ぐらいから山に登り始められればいいか。」っという気持ちが漠然とあったのだが・・・。やはり、手みやげのお饅頭とビールの力は偉大である!!
ビールに舌と気持ちの拍車をかけられながら、Oさんと話の輪を転がしているうちに、この時期でも山を選べば、十分に登山は可能だということを言われ、僕もだんだんはやくこの人たちと一緒に山に登ってみたいという気持ちが強くなってきた。
そしてその夜、とうくろうさんとFさんに連絡し、都合を調節した結果、正月も真正月、ど松の内の3日なら、みんなOKだということがわかった。
行き先は山に詳しいとうくろうさんにお任せすることとしたが、問題もまだ残っていた。
六つ星方式のサポート法では、視障者1人に対して2人のサポートが必要なのだが、今回はFさんと僕という2人の視障者に対して、まだとうくろうさんとOさんという2人しかサポートが確保できていないのであった。
とうくろうさんに相談したところ、奥様もご協力いただけるということになり、あと残るは1人である。
妻の大学時代のワンゲル仲間で、愛媛のNさんだったら、どうせしょうがつだって暇だろう・・・ っじゃなかった。 (^.^; 何度か僕ら夫婦と一緒に山にも行ったことがある彼女なら、きっと協力してくれるはずだと見込んで、連絡してみたところ、快く引き受けてもらえた。
これで態勢もできあがり、山も土佐山村の工石山に決まり、あとは年明けを待つだけであった!
1996年の正月は、新春の陽光に銀色に輝く高知の北山が印象的な、いつもよりも寒い正月であった。ちなみにこの年は、高知に来て以来2年間僕は体重計に乗っていなかったのだが、この元旦に妻の実家で初めて体重計が80kgを示すほどの体になっていたということを知り、いつもの年より、身体的にも精神的にも実に重い正月でもあったということは、誰も知るまい。。。
そして、いよいよ待ちに待った初めての山行の朝となった!
雪のない山をということで選んだはずの工石山も、白銀の衣を纏い、僕らを迎えてくれていた。
登山口にメンバー全員が集まり、心地よい緊張と喜びの中で、一人一人としっかり握手を。「ありがとう。そしてこれからもよろしく!」
準備体操で体を反らせたときに、薄ぼんやりとした目に感じた、青い空とまぶしい太陽、そして工石山のシルエットは、今でもポレポレ山楽会の第一歩目を飾る、僕だけの大切な、オープニングシーンになっているのである。
娘の誕生と同じ年に歩き始めた、この”人の集い”。我が子の成長とともに、楽しみに、そしていつまでも大切にしていきたいものである。
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